ひと育つ こが育つ
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上米多比にあり、よろい墓と言われている。
薦野氏は市内で最も勢力があった豪族。増時の墓を中心に向かって左に成家の妻、信解院の墓、右に薦野で亡くなった重昌の墓がある。増時の遺骨は分骨され、新宮町立花口の梅岳寺の戸次(立花)道雪の墓の左端(中央は道雪の母)に祀られている。
文久3(1863)年に作られた井戸。
糟屋・宗像の二郡の境で筵内村、薦野村、内殿村、上西郷の四か村にまたがっていたため「二郡四ケ村井戸ひとつ」と呼ばれていた。
唐津街道の要路でもあった。
清滝水路とも呼ばれ、明和9(1772)年に清滝から上西郷までの約5キロにわたる水路を作った。
当時の覚書の約束は現在も守られ、毎年1月初旬から3月末まで福津市に送水されている。
飯尾理入は豊後国国東郡富来城主の兄で、黒田如水との戦いに敗れ家臣となり、薬王寺に移る。慶長13(1608)年4月没。
東前寺は同年、理入のために再興された。
薬王寺の字「立石」にある大石ですぐ横に「切り通し」があり、付近の字名「大道添」からも、古代官道の調査を実施したが立証できなかった。
立花城七代城主、立花鑑載の墓で大友氏に謀反し敗れ自刃した。現在は移転し、三柱神社に祀られている。
立花家の家臣、野田若狭の墓で天正11(1583)年3月14日の銘がある。
享保3(1718)年の石像で、三眼六臂の立像。
印相【いんぞう】
仏像は法徳や本誓(菩薩が過去にたてた誓願)を手と指の動きで示している。
故に印相を知れば仏像の尊名を見分けることができる。
また持物にもそれぞれの意味を持っている。
古賀市立歴史資料館
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