ひと育つ こが育つ
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明治22年、市町村制施行により糟屋郡は19町村となり、席内村、小野村、青柳村が発足する。その後席内村は昭和13年の町制施行により古賀町となる。
昭和30年、旧古賀町、小野村、青柳村が合併し新古賀町となる。昭和33年、古賀町役場の小野、青柳両出張所を廃止する。
昭和46年7月に役場庁舎を古賀神社横から現在地に新築移転、平成6年11月1日、人口が5万人となり、平成9年10月1日、市制施行により古賀市が誕生。
写真は町村合併前の古賀町、小野村、青柳村の役場庁舎。
明治5年の学制頒布までの教育は藩の子どもたちに藩校があったが庶民には教育を受ける場はなかった。
しかし、各地方では私塾や夜学が出来、古賀でも子どもたちは青柳や筵内などで勉学の楽しみと大切さを学んだ。学制頒布により明治初期、古賀に8つの小学校が出来た。
明治19年に小学校令が公布されこれまでの小学校は2校(他は簡素化)となる。
明治20年には青柳高等小学校が出来る。
昭和16年、太平洋戦争が勃発すると国民学校令が公布され各小学校は国民学校と改称された。終戦後、昭和22年3月に教育基本法と学校教育法が公布され再び国民学校は小学校と改称される。
また同年、古賀中学校が組合立として古賀浜の旧陸軍造兵廠跡に開校する。
夜学の鬼瓦
夜学の鬼瓦で古賀で作られたもの
古賀郵便局は明治14年に旧国道筋に開設、大正9年に駅前に移転する。
昭和4年3月には電話交換業務を開始、当初加入者は42名だった。
写真は大正10年頃の古賀郵便局。
昭和12年7月に勃発した日中戦争。写真は同年8月の古賀駅前の出兵の様子。
第二次世界大戦では古賀町民472名が戦死した。
昭和25年、古賀初の映画館、旭映劇がオープン。
その後、古賀東映劇場、富士映画館の3軒となり町民を楽しませてくれた。写真は現商工会館にあった富士映画館。
江戸時代の末から昭和17年まで青柳四ツ角(町川原)で酒造りをしていた石徳屋酒店。
地酒「石の寿」は多くの人に愛飲された。
薬王寺温泉は鉱泉で無色無臭、ラドンラジウム、塩素などを含み、胃腸病、神経痛に効用がある。
大正9年に湯場(浴場)が作られ、湯治客の要望により下宿屋(快生館)ができた。
大正14年に快生館は旅人宿となり、遠方からの客も増え昭和29年以降には旅館も5軒に増えた。
写真は昭和20年頃の様子。
古賀駅は明治23年9月28日に開業、博多赤間間が開通した。明治43年には駅舎が手狭になったため香椎駅の古材で改築された。
大正8年、日本調味料醸造の進出により引込線を敷く。昭和3年に再び駅舎を改築する。
昭和50年代に入り駅舎の老朽化が激しくなり、平成元年12月22日、橋上駅として新築オープンされた。
写真は昭和46年の駅舎。
古賀に会社が設立されたのは、明治30年の長崎材木店、大正8年にニビシ醤油の前身である日本調味料醸造(株)、昭和9年には岡部機械工業、昭和12年には高千穂製紙、昭和17年には西部電機工業が進出した。
写真は大根川をはさみ古賀南区から高千穂製紙(現日吉台)を写した写真で橋は前田橋(昭和25年撮影)。
古賀の商業は古賀駅を中心に発展した。古賀駅の開業が明治23年、古松屋(小松屋)旅館と松本農機が明治42年に創業。
商店街は先に駅前通りと本町通りが発展、中央通りと新町が後になり発展した。
写真は昭和26年に建築分譲された木造三階建の商店街で現存している。
昭和28年6月4日から降りはじめた雨は29日まで続き、古賀で最大の水害となった。
死者10名、行方不明者5名、住宅24戸が全壊、床上浸水1403戸、橋梁も24流された。
写真は高千穂製紙の社宅の様子。
文化課(リーパスプラザこが内)
古賀市立歴史資料館
電話:092-944-6214
〒811-3103 福岡県古賀市中央2-13-1