ひと育つ こが育つ
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昭和60年に編さんされた古賀町誌の「こがの伝説と民話」をもとに編集しました。
古賀村の一軒の家に勘助じいさんとお浅ばあさんの夫婦が住んでいました。夫の勘助さんが病気で亡くなって、奥さんのお浅さんが久しく独り暮しをしていました。
そんなある晩のこと、お浅さんがすぐ側に置いていたはずの鋏が突然無くなってしまったのです。お浅さんは不思議に思いながら「自分の考え違いじゃろう。」と気にもとめないでそのままにしていました。ところが、その後、たった今使ったばかりの包丁や尺竹などがまたたくまに無くなるようになって、翌日になって近所の小守たちが裏の納屋の前で無くなった品物を見つけてくれるようになったのです。
そんなこんなで、それからというもの無くなるのが激くなって、お浅ばあさんは困り果ててしまったそうです。
近所の人たちはみんなお浅ばあさんに同情して「こらあー古狸の仕業に間違いなか」と一日中裏の竹薮に向かって、狸をびっくりさせようと空の鉄砲を撃ちました。しかし、その逆にお浅ばあさんの家は大騒動になってしまって、家の周りから小石が飛んでくるものですから、どんなにしようにも手のつけようがなくて、お浅ばあさんは布団をかぶってブルブルふるえて長い夜を明かしたということです。
その後も茶釜が舞い上がったり、囲炉裏の灰が座敷の白壁に飛び移ったり不思議なことばっかり起こるものですから、村中から見物にくるようになりました。
祈祷師や役人、あげくの果ては魔物を払うと言われている猿までかつぎだして退治してもらおうとしましたが、どうにもならなかったということです。古賀村にあった不思議で恐ろしい話です。
慶長19年の大雨の時、清滝の不動山の麓がばっくりと割れて、その中から3個のほら貝が流れ出てきたということです。その内2つは海まで流されてしまったのですが、残ったひとつを村人が拾い上げて清滝の旦那寺の竃門山福仙坊に寄進をしました。ほら貝が流れていくとき、ものすごいうねり音がでて村人たちは大変恐ろしがったということです。海に流れていく途中、ほら貝がぐるぐる舞いながら流れていったものですから、回ったところを「貝舞」と呼ぶようになったということですが、現在も貝舞と言う地名で残っています。
筵内の熊野神社の拝殿に今にも飛び出しそうな見事な黒馬の絵馬があって、その迫力は見る人を釘づけにするほどでありました。
ときは江戸時代の中ごろのことです。静かでのんびりとした筵内村の正覚寺の畑に、ある日一頭のたいそう大きな黒馬が突然現れて、村人が精をいれて作っておった野菜やら、穀物を食ベ荒らしたということです。そんな時、村人は「どこからきたっちゃろか、この辺じゃ見かけん立派な馬じゃが…。そのうち、誰かが連れにくるやろ。」くらいに考えておりました。
ところが、毎日、毎日、村に現れては作物を食べ荒らして暴れるものですから、村の年寄りや子どもは家からも出られなくなってしまったのです。村の腕自慢たちが「たかが馬の一頭、取り押さえられんで、なんが腕自慢かぁ」と言って、捕まえようとましたが、馬は怖がるどころか逆に襲いかかってきて、みんなは逃げるのがやっとということでした。その馬は手綱をつけていないどころか、蹄鉄も打ってなく、突然どこからか現れてはどこへともなく消えていったものですから、村全体が狐につままれたようであったということです。
馬の無法ぶりが何日も続いて、村人が困り果てていたある日の事、あんなに毎日暴れとった黒馬が、神隠しにでも遭ったようにぴたっと姿を見せないようになったのです。村人は安心したものの、「なして急に現れんごとなったとかいな」と不思議でしょうがありませんでした。そんな中、村では「ひょっとしたら、あの暴れ馬は、熊野神社の絵馬から脱け出した黒馬じゃなかろうか」と噂がたって大騒ぎになってしまいました。
そんな噂を確かめてみようと、村人の何人かが熊野神社の石段を上って、神社の拝殿の絵馬を覗き込んだところ、どうでしょう、それまで画かれていなかった手綱がしっかりと描かれていたということです。
※この黒馬の絵馬は、今も筵内の熊野神社の拝殿に掲げられています。
清滝の静かな本谷の山間に三本柞(さんぼんいす)と呼ばれとるところがあります。昔、清滝の里に一人の笛吹き名人が住んでおりました。その笛の音色のよさといったら、村の人たちの心をとらえてしまうほどで、村祭りのときなどは、この名人が笛を吹かないと拍子抜けするくらいであったということです。
秋も近まったある日のこと、名人は薪拾いに本谷の山に入って、柞の大木のところまできて薪を拾いはじめました。薪も一杯になって「ここらで一服しょうか」と独り言をいって柞の木に腰をおろして、キセルを取り出し、タバコに火を付けたとたん、突然ゴロゴロ、ゴロっと雷が鳴って、ものすごい勢いで雨がふりだしたのです。「こらぁ、たまらん、せっかくの薪が濡れてしまう」といって、薪を柞の木の下に運びました。
「なして、こげな雷雨になったとやろうか」と、笛吹き名人は思ったのですが、実はこの柞の大木は天狗の昼寝床で、せっかくの昼寝を邪魔されたものですから、その腹いせに扇子を叩いて雷を呼びつけ、雨を降らしたのでした。
そんなこととは知らないで、笛吹き名人はじっと木の下に伏せていましたところ、いつの間にか空はからりと晴れ上がって、太陽の光が柞の葉の間から差し込みはじめ、もとの静けさを取り戻しておりました。「こらぁ、おかしい」と思った名人は、「早く帰ることにしよう」と立ち上がったところ、頭の上の枝に何かがぶら下がっていました。
よく見ると、それは綺麗な2本の竹筒で、木の葉を通して射す陽光でキラキラ輝いておりました。
不思議に思った名人は竹筒を手にとって、中を見てまたびっくり。漆塗りの立派な笛が入っていたのです。
笛吹きにかけては天下一と評判の高い名人は「今まで見たこともなか笛ばい。誰が忘れていったとじゃろうか。」と首をかしげながらも笛を口に当てて吹いてみたところがどうでしょう、この世のものとは思えないほどの音色だったのです。
天狗が忘れていった笛とは気付くはずもなく薪拾いも忘れてしまって吹き続けました。美しい音色が谷間を流れて、夢中になって吹いておりましたが、いつの間にかあたりは暗くなってしまっていました。「こらあ、うっかりしとった。早う帰らな」と笛を大事に腰に差して家路につきました。
家に帰り着いた名人は、一部始終を家の者に話して聞かせました。そのころ、犬鳴の山奥では、命よりも大切な笛をなくした天狗があちらこちらで笛を探してまわっておりました。まさか薪拾いの村人が持ち帰ったとは、まだ気付いてはいなかったのです。
天狗の笛とは露知らぬ名人は「長いこと笛ば吹きよるばってん、こげな美しいか音色の笛は見たことも聞いたこともなか。」と言って、家の縁側で吹いていました。それを見て家の者は「そらあ、天狗の持ちもんばい。早う返してこな、ばちの当たるばい。」と心配するのですが、名人はいっこうに取り合おうともしませんでした。それから、毎晩近所の人を集めては笛を聞かせていました。
そんなある日のこと、名人は裏山の畑を耕そうと、鍬を担うて出かけました。もちろん腰には笛を差していました、仕事の合間に一節奏でてみようと思ってのこととです。畑に着くなり「いっちょうひと汗流すか」と言って鍬を振り上げました。ところがどうでしょう、鍬を振り下ろそうとしても背中を引っ張られているような感じで、どうしても振り下ろされなかったのです。振り返って見ましたが、誰もいるような気配はありませんから「なしてかいな」と首をかしげてから、もう一回ためしてみましたが同じことだったのです。
もう、しかたがないから、名人は仕事をやめて家に向いました。
夜になって、昼間の出来事など忘れてしまっていた名人は、笛を取り出して、いつものように縁側に座ってから吹きだしました。そうすると、すばらしい音色ですから、近所の村人が一人二人と集まってきたのです。ところが、その時突然不思議なことが起こりました。夢中で笛を吹いていた名人が、一息入れようと思って吹くのをやめて笛を口から離そうと思いましたが、どうしても離れません。村人はふざけていののだろうと思って、名人と笛を引き分けようとしましたが、名人の額から冷や汗が流れるだけでした。
村人たちは「こらあおおごとのできた、天狗の仕業ばい。」と言って、隣村の占者のところに駆け込みました。事の次第を聞いた占者が名人の家に来てから、手を組んで呪文ば唱え一心に祈祷をしましたら、どうでしょう、あんなに引っ張っても離れんやった笛が、口からポトリと落ちたのです。心配顔で見ておった村人もほっと胸ばなでおろしました。真っ青になっていた名人は恐る恐る笛を拾いあげてから、丁寧に竹筒に入れました。
翌朝早く、名人はその竹筒を氏神様の天降神社(あまふりじんじゃ)に奉納したということです。
この笛は神宝として戦前まで古賀市薦野の天降神社に保存されていましたが、盗難にあい現在はありません。戦前、この笛を見たという古老の話では、「天狗の笛だけあって、指穴がとても大きかった」ということです。
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