ひと育つ こが育つ
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かつて白砂青松の景勝地として知られていた古賀の海岸は、黒田氏による砂防政策として宝永3(1701)年と元文3(1738)年に植林されたものでした。
この松林は大正時代まで厳しく守られていました。
市域には花鶴川河口付近に「花鶴浦」と呼ばれた漁村が一ヶ所だけ存在しました。
しかし、砂丘に展開する河口を利用した港は良港とは呼べず、明暦4(1658)年に港としての機能を返上、漁業権と海上交通に関する賦役は新宮浦と福間浦に分け与えられました。
農民にとって、毎年の米の作柄は非常に重要でありました。市域に見られる多くのため池は、江戸時代に造営されたものも少なくありません。
また清瀧仕掛水など用水路の開削は、費用と水利権が絡み簡単には行なえない大事業でした。
天候不順の際には各地の神社仏閣で祈祷が行なわれており、神社にはそのとき奉納された絵馬などが残されています。
また千鳥ヶ池では渇水の度に雨乞いの神事が執り行われていました。
青柳にあるこの神社は九州で最も古いとされる明応2(1493)年の銘の棟札を持ち古い歴史を持つといわれていますが、戦国時代の兵火により多くの記録が失われています。
ここには他に応永年間(1394〜1427)に奉納された大般若波羅密多経、藩政時代藩主黒田斉溥により奉納された高麗鷹の絵馬などが伝えられています。
慶長10(1605)年に唐津街道に整備された宿場町で、大名の宿泊する「御茶屋」が設けられていました。
幕末期には福岡藩・幕府巡検使のほか佐賀藩・薩摩藩なども参勤交代に利用し、周辺住民の負担は大きかったと伝えられています。
明治の大火により古い町並みと共に多くの古記録も失われてしまいましたが、道筋などは当時の雰囲気をよく残しています。
江戸幕府の成立後、農民統制は強化され、時代を経るごとに数々の名目で貢租が加わり、農民の負担は大きくなりました。
中には逃げ出す者もあり、耕し手を失った田畑は村中で共同耕作を行ない、年貢を納めなければなりませんでした。
筵内村でも耕し手を失った田畑が増えすぎ、農村経営の危機を招きました。これを解消するため、共同耕作を行なっていた田地を元の持ち主へ返す仕法が宝永8(1711)年に定められました。
それを記したのがこの掟書です。
掟書の記された札は、筵内村の庄屋であった安武家に代々伝わる書棚の蓋として利用されていました。蓋の裏側に残されていたこともあり、墨蹟なども極めて良好な状況で残されています。
また掟書に記す庄屋嘉一は、宝永8年に熊野神社へ奉献された鳥居(建立年の知れるものでは市域最古のもの)にもその名が刻されています。
高木・前田遺跡で発見された墓石には「亀光元年戌九月廿五日」と彫られていました。「亀光」は私年号といわれるもので、朝廷によって定められた年号(公年号)とはことなるものです。
この私年号は博多商人の間でも使用されたようで山本屋甚兵衛名義の『講鋪證文之事』にも「亀光元年戌九月」とあります。
この「亀光」のつくられた年は、現在のところ文久2(1861)年をあてるのが最も妥当と思われますが、この年号を使用した人々やこれを考えつくった人に関しては不明です。
また使用された地域は福岡藩内に留まるものと思われます。なお、確認されている2例ともに「亀光元年戌九月」ですから、ごく短期間に使用された可能性も考えられます。
文久2年は坂下門外の変に始まり、寺田屋騒動、吉田東洋暗殺などが続き、幕藩体制は大きく変わろうとしていました。
生麦事件もあり日英関係を危機的な状況に陥らせ、疱瘡や疫病も大流行し、人々の不安が高まったことは想像に難くありません。
年号を改めることの一因として、治世一新の願いがあり、したがって、人々は「亀光」という年号を起こすことで、世直しの気運を高めようとしたのでしょうか。
文化課(リーパスプラザこが内)
古賀市立歴史資料館
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